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民主主義の限界とその先

民主主義の欠点

民主主義は、自由や平等といった個人の権利を守る目的で生まれた。人民が権力を持ち、行使することにより、その目的を達成するというものだ。

自由と平等に価値を置く思想に則り、課題に対する決定権も個人個人に対し、平等に与えられる。

そのため、民主主義では、全ての物事を多数決で決定する。コンセンサス型民主主義も、話し合いによる多数派工作であり、最終的な決定は多数決となる。

多数決とは、少数の意見を破棄し、多数の意見で統一する仕組みだ。

この仕組みの中での少数派は、その意見を破棄され、真逆の意見のものが採用されても、それに従う必要がある。さらには、その決定を実施するためのリソースを提供しなければならない。

民主主義が生まれたのを古代ローマと考えると、それから2000年近く経つ。

交通手段と通信手段が発達し、それらにより、場所を越えた交流が爆発的に増えた。それらが発達していない頃、情報や文化は生まれた場所に留まり、それがそこに住む人間の考え方のベースを作った。しかし今は、前述した発達によって、個人の考えが、住む場所に因ることが少なくなってきた。

今までは、場所で括る形で集団を作ると、その中で全体がある程度共通した意見となる事が多かったが、意見が共通しなくなり、さらには、別の集団に所属するする個人と意見が一致することが多くなってきている。

それは、 土地によって集団を括る今の在り方が、現実に適さなくなってきている事を意味する

人間を住む土地によって区分けし、全てのイシューをその集団で決定する、この仕組みは、既に原始的で不都合が多いものになっていると思えてならない。

正しさとは

「自由」に高い価値を置くフランス社会。この価値観は理解できるが、別の要素と比較した場合はどうか。

そのフランスで起きた、シャルリー・エブド紙襲撃テロ。

これは、「表現の自由」の価値が、イスラム教の神に対する価値より比較出来ないほど高いとするフランス社会に対し、それを絶対に認めることが出来ない、この社会の少数派が起こしたものだ。

あの風刺画は、フランス社会では表現の自由として認められるが、少なくとも自分から見ても、倫理的な面で正しいとは思えない。

何に価値を置くかは、人それぞれで、さらには、絶対的な正しさというものは無い

1+1=2である事は間違いないが、何をもって1とするかは、人の見方による。

お金や票、デジタルデータのようなトークンであれば、何が1であるかは、全ての人で一致する。

しかし、現実社会は、トークンでは構成されていない。

割り箸1本と木の棒1本が置かれていて、箸は何本置かれていますかと聞かれた時、その回答は、割り箸と木の棒を箸と見なすかによる。その判断はその人の基準次第で、その基準は、その人の経験や知識から作り出されるものだ。

その基準が全ての人間で一致するということは、それこそ、人間が人間で無い、ロボットのようなものになった瞬間だ。

人を殺すことでさえ、戦争や凶悪犯に対する処罰となると、正しいとする意見が多数となる。

全員一致で正しいと言えるものは、この世界には無いと言ってもよい。

民主主義の先

集団の決定とは、個人個人で基準がバラバラな中で、何を正しいとするかを、決めるということだ。

これを多数決で決める。

なぜ多数決なのか。

それは、それ以外に手段が無いということに尽きる。

全員が平等の決定権を持つとすれば、あとは多数決以外に無い。

しかし、ここに暗黙の前提がある。

それは、 課題を解決する方法を決定する前に、決定する集団が決まっている ということだ。

はじめから意見が一致しない事が明らかな集団があり、その中で一致させようとするため、多数決という手段を用いらざるを得なくなる。

ここを変えると、多数決の問題は解決する。

はじめに個人の決定があり、決定が一致した人達で集団を作る 。集団はその決定についてのみ存在する一時的なもので、それが有効性を失うと共に解散する。

これが、私が考える新しい集団の形だ。

これはアナーキズムの一形態で、アナーキズムと同じ問題が生まれる。

真っ先に浮かぶのは、無秩序状態になってしまう事や、軍事力や警察力などをどのような扱うかだろう。

これはとても難しい問題だが、原理的に難しいということではなく、技術的に難しいというものであり、ブロックチェイン技術により始まった、契約のデジタル化を進めていくことにより、クリア出来ていくものと考えている。

これを含めて、考えられる問題点とブロックチェイン技術については、このブログの中で色々と書いていきたいと思う。

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