湛増-海賊を率いて平家を討った熊野のボス神主

nachi no ootaki(那智の大滝)

世界遺産、熊野

世界遺産 に登録されている熊野。

ユネスコのおっさん達が評価したのは…
昔の人達のあんなことこんなことが、ちょっと値が張る薄皮アンパンの餡のように、この場所にギッシリ詰まっていたことだった。

このお高い詰まり具合。
それは、餡自ら突っ込んでくるような、餡のハートを熱くする、 熊野の絶妙なポジションと地形 によって起こったと思う。

熊野は三方を海に囲まれ、もう一方は険しい山々が続いている。
奈良とか京都とかから見ると、「険しい山の向こう」になる。

それが、
「あの先には何かいるでしょ」
いう感じを生み出し…

だんだんと聖なる場所な雰囲気になり…

神道や仏教の人達も、
「この場所、強ぇ神様(仏様)置いとかないと、バランス取れないでしょ」
となり…

貴族の人達も、
「ここお参りしてお金あげとかないと、呪われちゃうでしょ」
となり…

その他おっさん達も、
「人と金がイッパイだから、オレたちも仲良くして、いい思いさせてもらうべきでしょ」
となっていった。

こうやってギッシリ詰まっていったと思う。

そして、この溜まった餡。
これを 熊野からあっちこっちにぶつけまくった のが、 湛増 だ。

湛増の時代の熊野

熊野三山 は、 本宮、新宮、那智 という3つの神社から成っている。
これに、この辺りの神社や寺がぶら下がってる。

中世の頃、熊野三山はあちこちの エラい人達から貰った土地 があり、そこからのアガリで食っていた。
そしてその食い扶持を守る必要があるので、武士団を抱えていた。

寺で神社で武士で領地経営。
この三菱グループのようなコングロマリット感。

この三山を 熊野別当 というボスが統括していた。

湛増 は、この熊野別当だった 湛快 の次男として産まれた。

湛増の小さい頃がどうだったかの記録は残っていない。
はじめて表舞台に出てくる時には既におっさん。42歳の頃。

この頃は京都に住み、コソコソと武士を雇い集めていた。

なんでそんなことをしていたかは分からない。
ただ、熊野別当は 湛快の代から2つの家系に分かれて行く
ライバルになる従兄弟をコテンパンにして、オレ家系が熊野を牛耳ってやろうという感じだったのだと思う。

湛増はその後、兄貴が死んだことで繰り上げ別当候補になった。
イヤッホゥ。
湛増は、ご機嫌なご様子で、拠点の紀伊半島南西部、 和歌山県田辺市 辺りに戻った。

湛増挙兵

そんな1180年、 以仁王 から全国の源氏に対して 平家追討令 が出された。
源平合戦の始まり。

これに対する 源頼朝 の挙兵が、 8月17日
木曽義仲 の挙兵が、 9月7日
そして、 なぜか湛増
8月15日前後
この男、なかなかのお調子者である。

なんで源氏じゃないのに、お呼びじゃないのに、調子に乗って挙兵とかしちゃったのか。
それは、このブログで何度も出てくるこの言葉が、ピッタリ来るだろう。

「乗るしかない、このビッグウェーブに!」

とにかく湛増は挙兵した。
しかし、戦ったのは平家ではなかった。
憎き従兄弟…でもなかった。

木曽義仲が平家と戦い始めた頃。
湛増は 弟の湛覚 と戦っていた。
先は長い。

そしてこの戦い。
なかなか勝つことができず、 朝廷が介入 する始末。
さらに悪いことに、朝廷から 湛増鎮圧の命令 が出てしまった。

湛増は息子を人質に出し、泣く泣く降伏した。
先は果てしなく長い。

海賊のボスになる湛増

一族にハブられた湛増は、熊野の山を牛耳ることをとりあえず諦め、海に目を向けた。
海には、 紀伊の海賊達 がいた。

この辺りは、 平清盛 の締め付けが厳しかった。
このことに、海賊達はイラッときていた。

こいつは使えるゾ。
湛増は、海賊たちに言った。

「乗るしかない、このビッグウェーブに!」

湛増は、海賊達を手下に組み込んだ。

そして湛増は、海賊を率いて 伊勢に侵攻 した。
伊勢は平家の根拠地が近いという理由だった。

でも実際の目的は違っていた。
目的は 伊勢神宮 だった。

伊勢神宮は、あまりにプレミアムな神社なので、ヘナチョコ軍隊しか持っていないのに、熊野よりイッパイの領地を維持できていた。

「気にいらねぇ。オレは、神聖な感じがするヤツが一番気にいらねぇんだよ。」

熊野の神主、湛増は、海賊を率いて伊勢神宮に向かって攻め進んだ。

木曽義仲が倶利伽羅峠の戦いで勝ち、平家が京を追われる半年くらい前の頃だった。

上陸した湛増は、守りを固める平家の軍を打ち破り、伊勢神宮に乱入。
成人式でニュースになる若者達のように暴れ回った。

その後、周辺の伊勢神宮領を荒らし回った。
木曽義仲が京都に侵入する頃、湛増は 愛知や徳島辺りまで荒らし回る ようになっていた。

この男、やりたい放題のお調子者である。

別当になる湛増

勢いを増した事で、湛増は熊野の主導権を取るようになって行った。

そんな中、 源範頼・源義経 は、木曽義仲から京を奪い、平家を西へ西へと追い詰めていっていた。

その功績で、源義経は左衛門尉・検非違使に任命された。
それと同じ頃、湛増は朝廷から熊野別当に任命された。

湛増は、遂に念願の熊野別当の座を得たのだ。

源平合戦への参戦

人形-源平壇ノ浦合戦-義経

一の谷の合戦の後、源頼朝は考えた。
この男、よく考える。

「ちょ、待てよ。
平家、水軍持ってるんで、このまま追っても逃げちまう。
沖縄、台湾、フィリピン・・・
オーストラリアまで逃げちゃうかも・・・
そしたら、現地のアボリジニたちを仲間に引き込むかも・・・
あっち、馬がいなそうだから、カンガルーに乗るかも・・・
・・・
ヤバイ!
このままだと、アボリジニ侍がカンガルーに乗って、攻め上がってくる!
囲い込んで、瀬戸内海に追い詰めないと!」

その作戦で、源範頼を 九州担当 、源義経を 四国担当 に任命した。

作戦開始。
源範頼は主力部隊を率いて九州に向かった。
しかし、瀬戸内海を平家の水軍に抑えられていたので、兵糧の調達ができず、苦戦しまくった。

そこに、事件が起きる。
しびれを切らした源義経が、反平家側で暴れ回っていたあのお調子者、 湛増を九州担当に任命 したという噂が流れたのだ。

源範頼は激怒して源頼朝に訴えた。
源頼朝は、オレは知らねェ、認めねェと返答した。

頼朝と義経の確執となる原因の一つになった事件だった。

その後、源範頼は、やっとこさ九州の豪族を味方につけることに成功した。
そして九州に拠点を作ることができた。

この頃、源義経は、 屋島の戦い で平家をさらに西国に追いやっていた。

壇ノ浦 に追い詰められた平家。 ここで最後の戦いが始まる。

平家物語 』にこのときの湛増が出てくる。
この合戦での態度を決めかねていた湛増が、赤鶏と白鶏を戦わせて、白鶏が勝ったことにより、源氏側に付く決意を固めたというもの。
これによって源氏の勝利の流れになったような記載となっている。

湛増は、平家討伐令の時点で反平家側で動いていたので、おそらく嘘。
このクライマックスをドラマチックにしようと、作者が盛りに盛ったのではないかと思う。
でも、この戦いのキーマンだったことは間違いないだろう。

湛増の力もあり、平家は滅亡した。

頼朝、義経の確執となった原因

平家討伐を進める間に、 頼朝と義経の間に確執 が生まれていた。
原因は、義経が、頼朝に無断で任官をしていたこと。

湛増などは、頼朝に会ったこともないのに、最終的に源氏の主力となってしまっていた。

義経は、 後白河法皇 から頼朝追討の言葉をもらい挙兵。
近畿で兵を募ったが、応じる者は少なかった。

こんな中、湛増はどうしたかの記録が残っていない。

でも、この時期の頼朝の文章の中に、「 紀州之輩 」よばわりしているところがある。 この気に食わねぇ感からすると、多分、義経と共に行動していたようだ。

義経は東北へ落ち延びて行ってしまった。

「ちょ、待てよ。」

熊野別当で動くことができない湛増。
丸裸状態。 湛増は頼朝に投降するしかなかった。

湛増は頼朝に教典をイッパイ送った。
経典とか織物とかを奮発した。
しかし、お調子者感ゼロの頼朝は、これにテンションが上がることは無かった。
受け取るいわれはない、とつき返したのだ。

それから8年間、湛増は帰参が許されなかった。
やっとこさ許された3年後、湛増は死んだ。

図解 聖地 伊勢・熊野の謎 (別冊宝島 2248)

図解 聖地 伊勢・熊野の謎 (別冊宝島 2248)

新・平家物語 完全版

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