王直 - 16世紀の暴れ国際商社マン

平戸にイッパイいる王直

王直

平戸に行くと、九州人、もしくはもっと限定された範囲以外の人にはあまり馴染みの無い、 王直 の像があちこちに建てられている。

ボクを差し置いていて、イッパイ銅像になっちゃって、このヒゲオヤジ、何者?

王直は、16世紀に日中間で荒稼ぎをしまくった、倭寇のボス。 荒稼ぎする中で、アジアに色んな影響をもたらした。

例えば、日本の鉄砲伝来。
日本は戦争しまくりなんで、鉄砲イッパイ売れまっせ!と、ポルトガル人にプレゼンし、日本の大名にアポ取って引き合わせようとした。
そして、種子島へ辿り着き、そこから歴史の教科書によく出てくる、鉄砲伝来となる。

日本へ大量に鉄砲がなだれ込むキッカケを作り、戦国時代の勢力図を一変させる元となったのだ。

王直、暴れ国際商社マンへの決意

王直は、元々、杭州から内陸に入った辺りにある、安徽省黄山市の有力者の息子と言われている。
この辺りは、「新安商人」と言われた、有名な商人集団の出身地。
王直は、そんな商人スピリットに溢れる地域で生まれ育った。

当時、中国大陸は「明」の時代。
明は、締め付けキビシイ独裁国家。
海禁政策 により、貿易を全て国家管理されているという、中小商人がヒモジイ思いをする時代だったのだ。

そこで王直は、

「ここじゃ、何をやっても法に触れちまう。脱出だ!」

と言って、国の境を、そして、合法と犯罪の境を飛び越えていった。

倭寇となる

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王直は最初、後に腹心となる 徐銓 とともに、塩商人になった。
これが大失敗。

こりゃあかんとなり、密貿易に手を出した。

広東へ繰り出し、そこで隠れて シャムマラッカ といった東南アジアの人達と貿易したのだ。

その流れの中で、この辺りを仕切っていた倭寇の大物、 許棟 の配下になった。

倭寇のボスになる

許棟の配下になってすぐ、ポルトガル商人の通訳となり、日本とのビジネスの仲介役となった。

その頃、許棟は浙江にある 双嶼港 を支配下に置くことに成功し、ここで大規模な密貿易を開始した。
王直は、日本貿易担当という役割の他に、倭寇集団の金庫番を任されるという大出世を果たした。

早速王直は、博多や平戸の商人を双嶼港に招き、日本との密貿易を開始した。

こりゃ儲かる。
ついつい調子に乗りすぎた許棟集団は、権益をめぐり地元の有力者と対立。
それによりこの辺りの治安が悪化した。

これはヤバイと思った明国は、浙江の役人であった 朱ガン (糸ヘンに丸)を派遣して双嶼港に攻めこんだ。
結果、許棟をはじめとした幹部が一網打尽になってしまった。

この攻撃で捕まった許棟集団の中には、 ポルトガル人 や、ポルトガル人の付き人として来ていた、 アフリカの黒人 、さらには、稽天、新四郎といった日本人も含まれていた記録が残っている。(明史朱ガン伝)

倭寇というと「倭」が付くので、ローカルな集団に思えてしまうが、超グローバル集団なのだ。

幹部を失った残党は、王直を次のリーダーとして支持し、集まっていった。

王直は、日本との密貿易で資金を確保しつつ、残党の吸収と、他の倭寇を討伐を進め、勢力を拡げた。

1550年頃には、オンリーワン倭寇の状態となっていた。

頂点と転落

狡猾な王直は、許棟の二の舞とならないように、明とも手を握った。
東シナ海を仕切る存在となっていたため、

「海上の治安維持はワタシ達にお任せを!」  

と、海のセコム役を買って出て、密貿易を黙認させたのだ。

堂々と蜜貿易をしながら莫大な利益をあげる王直。

どんどんと勢力を増していき、もはや海上独立国家のような状態となっていった。

このままではヤバイと判断した明は、 兪大猷 という武将に、拠点としていた烈港を襲撃させた。

ギリで脱出に成功した王直は、日本の平戸へ逃走。
そしてポルトガル商人を呼び寄せ、この地を拠点に貿易を行った。

平戸の聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂の近くに、この頃の王直の屋敷跡が残っている。

嘉靖大倭寇

崩壊した王直集団は、いくつかの集団に分裂し、中国大陸への襲撃を開始した。

この襲撃は、 嘉靖大倭寇 と言われ、王直の腹心であった徐銓の甥っ子、 除海 がその最大勢力だった。

王直は、裏で手を引いていたとも距離を保っていたとも言われている。

どちらにしろ、暴れ馬達の手綱から手を離せば、こうなる事は目に見えていたはずだ。

この大倭寇、大多数は元々のメンバーの中国人だったが、日本人も多く動員された。
戦国時代であったこの頃の日本。日本は戦のメジャーリーグのような状態だった。
倭寇集団は、密貿易で得た資金で、戦争のプロ集団である日本人を助っ人外国人として大量に雇った。

最大勢力の除海は、大隅で育ったため、その辺りの日本人とのネットワークができていた。
除海勢力の倭寇は、日本人が主力だったと記載されている。

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一方、明。 戦争なんてまったくない時代が続き、武将といえども戦争慣れしていない。

そんな状態なので、倭寇は内陸部までどんどんと攻め登った。

この辺りの情報は、『籌海図編』という当時の書物にまとめられている。

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ボクはこれを「書虫」という中国書籍ネット書店で購入した。
興味ある方はゼヒ。

書虫:http://www.frelax.com/sc/

明の手の平返し

この大倭寇に手を焼いた明軍の総指揮官 胡宗憲 は、王直を連れ戻して治安管理をさせる作戦を取った。
王直は商売ができればよかったため、この話は悪くなかった。
乗り気になった王直は、九州の倭寇勢力を説得し、さらには貿易の大義名分となる「 勘合 」を得る目的で、戦国大名の 大友宗麟 とツルむようになった。

王直と胡宗憲の交渉は成立し、王直は明へ帰国することとなった。

が、この頃、嘉靖大倭寇のボス格だった除海はすでに処刑され、王直自身が倭寇の頂点にいるような状態だった。

これに明国の中央は不信を抱き、王直を投獄することとなった。
そして、そのまま処刑という結果となった。

王直の存在

当時は商品経済が活発化し、さらにはスペイン、ポルトガル等のヨーロッパ勢力が進出してきたこともあり、貿易は現代に劣らないくらいにとてもメリットがあることだった。

それを明が海禁政策という時代遅れの政策によって制限をした。
これさえなければ貿易で食っていける人達を、アンダーグラウンドの世界へ追いやり、結果、度重なる倭寇襲撃を引き起こした。

王直は、その壁に堂々と穴を開け、この時代の交易を促進させた。

王直が死んで7年後、明の海禁政策は中止された。

王直。ボクより平戸に銅像が建つのにふさわしい人物だ。

大航海時代の東南アジア〈1〉貿易風の下で (叢書・ウニベルシタス)

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倭寇―海の歴史 (講談社学術文庫)

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