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吉見百穴- 埼玉のカッパドキア

埼玉のカッパドキア?

吉見百穴 という遺跡がある。
場所は埼玉北西部、川越の北にある埼玉県比企郡吉見町。
なので、東京から車で1時間くらいで行ける。

かなり衝撃が高い遺跡。  
でもナニコレ?  
カッパドキア?埼玉にカッパドキア?

実際、規模は劣るけど、作りとしてはなかなか良くできている。
穴に入ると、左右がベッドになっていて、そんな感じの穴が縦横に連なってるので、古代のラブホのようにも見えてくる。

立ち上がれるほどの高さは無いので、古代ビジネスマンのカプセルホテルの方が近いかも。
仕事で遅くなって、真っ暗になってしまい、野生の獣が危険で帰れない古代ビジネスマンの為の、安く泊まれるカプセルホテル。

そんな感じで想像が膨らみまくる。

当然昔からあったので、昔の人もナニコレ状態だった。

戦国武将の武田信玄とかも、これを見てハテナ状態になり、「動かざること山の如し、静かなること林の如し」を惑わせた(かも)。
そして、武蔵松山城を攻める際に、この遺跡を見て「 モグラ戦法 」というのを思いついたらしい。
この「モグラ戦法」とは、鉱山労働者をたくさん使って坑道を掘りまくってこっそり攻めこむという、全然火の如しでない侵略方法だ。
こうして「疾きこと風の如し、侵略すること火の如し」も惑わせた。

吉見百穴 近代に入り考古学が発達しても、ナニコレ状態。

アイヌの民話に出てくる「 コロボックル 」という小人さん達の住居跡という説まで出てきた。  
(実際この遺跡内の説明書き看板に、コロボックル説が書いてある。)

「コロボックル」の民話の一つで、十勝の地名の由来となった話。

昔、この地方にコロボックルという小人族が住んでいた。    
このコロボックルは大変おとなしいお人好しだった。  
獣や魚を採っても自分たちだけでは食べず、部落の家々にそっと置いていってくれた。    
だが、誰も見た者はいなかった。

ある日、いつものように肉や魚を戸口から入れてくれたのを、  
悪いアイヌが手を引っ張って中へ引きこんだ。    
そこで見たコロボックルは、唇や手に美しい入れ墨がしてあった。    
無礼な仕打ちに怒ったコロボックルは、        
「いつまでもこの地に住もうとしていたが、他の地に移ることにした。  
しかし、この地は段々と枯れるように衰えていくから、トカプチと言え。」    
と言って、どこかに消えるようにいなくなった。    
そこから、この地をトカプチと言うようになった。

という話。

コロボックルの生活跡だったら、本当に埼玉のカッパドキアと言える。   でも実際は、お墓。  
6、7世紀辺りのお墓 らしい。

古墳時代の古墳じゃないお墓

吉見百穴

6、7世紀といえば、古墳時代。
デカデカと前方後円墳を作る権力者もいれば、こんな感じで死んでマンション暮らしになってしまう人たちもいる。
そう考えると涙が止まらず、この吉見百穴のたくさんの霊達に
「わたしの〜お墓の〜ま〜えで〜泣〜かないで〜く〜だ〜さ〜い〜」
と合唱される幻覚に囚われる。
危険ドラッグはやってません。

でも、この時代だと、ただ穴を掘って、体を折り曲げる形で埋められるのが一般的だったろうから、寧ろ洗練されていて、品のいい埋葬方法だったとも思える。

吉見百穴の時代

6、7世紀といえば、聖徳太子とか中大兄皇子とかそんな辺りだ。

大和朝廷が出雲国とか吉備国とかを取り込んで勢力を広げ、この辺りも取り込んだ頃。

実際、662年の白村江の戦いの第一軍団長は、 上毛野雅子 という、毛野氏が分かれてできた 上毛野氏 の将軍だ。

古代や中世の書物では、東国は未開で何もないような感じに書かれているものが多い。

でも実際は、この吉見百穴がある辺りや、群馬、栃木といった辺りは、それなりに発達していた。

この辺りの古墳が近畿地方を除くと最大クラスだったりしているのは、その証拠だ。

さらに時代を遡って、採集・狩猟の頃。
この頃の遺跡で典型的なのが貝塚。この貝塚が日本で一番多く出土しているのが、千葉の辺り。

関東地方は、文字が伝わる前から人が多く住み、それなりの文化を持っていたのだ。

行くべし

そんな感じで、マイナーな割にはインパクトある観光スポットで、割と都心からも近いので、この辺りを通った際には寄ってみるのもいいカモカモ。

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