読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

アイヌ社会衰退の流れ


photo by Ken.Matsushima

長い間、北海道や樺太、千島列島を拠点として生活してきたアイヌ人。
南から来た縄文人と北から来たオホーツク人が、人種的、文化的に合わさって生まれたとも言われている。
和人により、段々とアイヌ社会は追い詰められていった。それは日本のその時々の政権によるものだと思いがちだが、そうでもない。

江戸時代、松前藩ができ、和人が北海道に領地を拡げていっている間、アイヌ人は和人との交易で結構なレベルで儲けていた。
首長クラスでは、黒ベースで地味目な色で装飾したアイヌ衣装だったものが、キラキラでイェイイェイな装飾をした衣装へと変わっていった人もいた。

今でも広大な自然が残っている北海道。住んでいた場所は追われることになり、ある程度侵食される。それでも、和人は彼らにとってオイシイ存在だった。
でも、段々とそれは変わっていった。
それは、交易の主体が、江戸幕府の藩から商人に変わっていったことによる。

松前道広と商人

松前藩8代藩主、松前道広。
この人の人生を一言で言ってしまうと、「力と女の人生」。マッチョ系バカ殿だ。
この人とそれを取り巻くにより、アイヌ社会が大きく変わる。

対ロシア

松前道広がやったことは、まずロシアとの交渉。

当時ロシア帝国がシベリアを越え、千島列島まで進出してきていた。
そこまで進出したロシアは、カナダに進出していたハドソン湾会社(イングランドの国策会社)や、原住民との交易で大儲けしていた。そして、近くにある、それなりに大きい国であった日本にも交易を求めてやってきたのだ。

もちろん、松前道広は、持ち前のマッチョイズムで断固拒否した。

浪費

次にやったことは、藩の金の浪費だ。マッチョに豪遊しまくり、藩の財政を借金漬けにした。

典型的な話として残されているのは、参勤交代途中での豪遊。毎回のように吉原に寄って金を使いまくり、そこの遊女を2回も北海道にお持ち帰りしたらしい。

商人に領地委託

借金ができた藩は、金を借りた。借り先は商人達。幕府に注意されるなか、延々と借り続けた。遂には返せなくなり、貸主の商人達に訴えられる始末。

弱味を握られた藩は、商人達に領地経営を委託するようになった。

一番強硬に訴えたのが、飛騨屋久兵衛を中心とした商人グループ。彼らは、北海道の檜の質が良く、まだ他の商人が手を出していないことに目を着け、漁業以外に林業にも大々的に進出し、大儲けをしていたが、松前藩に取り入り、更に勢力拡大をしていた。

クナシリ・メナシの戦い

この飛騨屋久兵衛は、岐阜県の下呂温泉辺りの武川家の流れで、この頃は4代目飛騨屋久兵衛の頃だった。

藩に金を貸し、後ろだてとなっていることをいいことに、この飛騨屋久兵衛は、現地のアイヌ人を悪条件で働かせていた。まさに、悪代官と越後屋の関係でウハウハの状態。 さらには、飛騨屋久兵衛の使用人が、アイヌ人レイプ事件を起こした。もちろん松前道広はダンマリを決め込む。

これらの事態に、国後や羅臼、標津のアイヌ人たちがブチ切れ、和人71人を殺害した。 これがクナシリ・メシリの戦いだ。1789年5月に発生している。 国後の総首長のツキノエ、シャモコタン(根室市豊里)首長のノチクサは、松前藩の襲撃に備えてあちこちにチャシ(城的な施設)を築き、戦の準備を整えた。

f:id:osajiru:20140916204249j:plain

国後総首長ツキノエ

f:id:osajiru:20140916204248j:plain

シャモコタン首長ツチクサ

が、直接衝突には至らず、和人を殺害したアイヌ人37人がノッカマップ(根室市牧の内)で処刑されることとなった。

f:id:osajiru:20140916202902j:plain

寛政の蜂起和人殉難墓碑

幕府に締め上げられる

ロシアとの緊張状態にあるにも関わらず、クナシリ・メナシの戦いを引き起こし、領内をうまく統治できていないと判断された松前道広は、蟄居させられた。 さらには国防の観点もあり、領地を取り上げられ、幕府が直接統治することとなった。

以上、松前道広の生きざまでした。

クナシリ・メナシの戦い後のアイヌ社会

クナシリ・メシリの戦いを起こす直接の原因となった、飛騨屋久兵衛も領地経営の請負を解消させられ、蝦夷地から去ることとなった。 が、飛騨屋久兵衛の下請けをしていた能登商人達が、南樺太に進出するなど、商人達の進出は止まらなかった。 自分達の商売をする機会を失っていったアイヌ達は、ジリ貧となって行き、和人やロシア人の下で、貧しい生活をすることになっていった。

© 2009-2017 Osajiru All Rights Reserved.