間宮林蔵とチェーホフ

タイトルに古代史、中世史と書いているけど、今回は近世。。。

なんでなんで?なんで?
ボクは、このネタを書こうと思った5分前のボクに問いかけた。

前回の記事でも書いたけど、来週は北海道旅行を控えている。
待ち遠し過ぎる。
あまりの待ち遠しさにボクの意識は北へ北へと進み、見事に北海道を越えを果たし、樺太にまで行ってしまった。

そんな流れでこの辺りの情報を漁っていた。
しかし。
とにかく昔の情報が少ない。。。
でもブログに書きたい。。。
いいじゃないの!書いちゃえばいいじゃないの!
ということで近世なのです。

で、今回のタイトル。

間宮林蔵は江戸中期、チェーホフは江戸後半辺りの人。

間宮林蔵はわかるけど、なぜチェーホフ?と思われるかもしれない。

チェーホフは、『かもめ』『ワーニャ叔父さん』『桜の園』などの作品を残す前、樺太に訪れて記録に残している。
この2人は、「樺太の詳細な記録を残した人」繋がりなのだ。

見つかっちゃった

photo by sjrankin

大まかにいうと、樺太北部はニヴフ人、南部はアイヌ人の土地だったようだ。

間宮林蔵はアイヌ語を理解できたが、北へ北へと進んでいると、アイヌ語が通じない地域に入っていった記録が残っている。

間宮林蔵は、樺太の西海岸辺りを北へ進み北端まで出た。その中で間宮海峡(タタール海峡)を発見した。

チェーホフは反対にシベリアから間宮海峡を越え、南へ進んだ。
記録の途中までは、ギリヤーク人しかでてこず、途中からアイヌ人や日本人が出てくるようになる。
ギリヤーク人とは、ニヴフ人に対するロシア人の呼び方だ。

チェーホフの記録によると、北部サハリンにはまた別の民族が住んでいることが当時知られていた。

ギリヤーク人のほかにも北部サハリンには、ツングース族のオーロキ人、あるいはオーロチ人というのが、わずかながら、住んでいる。しかし植民地では彼らの噂をほとんど耳にしないし、彼らの分布している領域には、まだロシヤ人の村がないため、ここでは名前をあげるだけにとどめておくことにする。

(チェーホフの頃は、樺太はロシア領、千島列島は日本領という状態だった。)

チェーホフは、ニヴフ人、アイヌ人について、色々と記載している。
ニヴフ人については、

この土地の原住民たるギリヤーク人に触れる必要がある。彼らは北部サハリンの西海岸と東海岸や、河川、それも主にトゥイミ河畔に住んでいる。どの村も古く、昔の著述家たちが記している村名が、いまだにそのまま残っているが、その生活はやはり、全面的に土着とは言い難い。というのは、ギリヤーク人たちは自分の生まれ故郷はおろか、およそ特定の場所に対して執着を感じていないため、自分のテントを放棄し、家族と犬を連れて北部サハリン一帯を遊牧しながら狩猟に出てしまうことが、しばしばあるからだ。

というように書いている。
食事については、アザラシ、サケ、チョウザメ、クジラの生肉ばかりを食べ、酒盛りの時だけ満州ニンニクや苺をツマミにするとのこと。
なんとなくイヌイットに似てる?

それと、農業は悪いことで、地面を掘ったり何かを植えたりすると必ず死んでしまうと考えていたらしい。

アイヌについては、食事と衣服はニヴフ人と同じ。ただ、ニヴフ人はパンを喜んで食べるけど、アイヌ人はパンは全然ダメでとにかくお米。ロシア人はお米持ってないんで、樺太がロシア領になると飢えはじめて、お米求めて北海道に逃げ出したような人たちもいたそうだ。

それ以外には、アイヌはニヴフ人より清潔で文化的だということや、温和で控えめで善良。それでいて勇敢という評価をしている。
どことなく日本人の評価にも似ている。裏を返すと、自分たちが今まで知っていた人たちが真逆なのでは?

見つけちゃった

f:id:osajiru:20140906181501j:plain[間宮林蔵像]

間宮林蔵がいた頃の樺太は、日本、ロシア、清など周りの国がどこも進出していなかった。それどころかお互いがどの辺りまで出てきているのか、さらには島なのか半島なのかさえ分かっていなかった。

ヨーロッパにとっては、大航海時代からだいぶ経ち、世界地図ジグソーパズルの中でこの辺りのピースだけが埋まっていないという状態だった。
1780〜1800年辺りにフランス人のラペルーズやイギリス人のブロートンなどがこの辺りを探索している。

日本も、漁のために南樺太に訪れたり、樺太に幕府の施設を建てたりはしていたが、これより北には進出していなかった。

が、帝政ロシアが東へ東へと進出し、北海道が根室に来て貿易を持ちかけたり、択捉島の日本施設を略奪したりしだした。
間宮林蔵は、この択捉島の日本施設襲撃時に島で勤務していて、こいつはヤバイと思い立ち、ロシアとの戦を訴えた。それは受け入れられなかった。その代わりにどこまでがロシアでどこまでが清なのかを調べるために樺太測量の任務を与えられた。

また、この襲撃と同じ年、幕府は全蝦夷地を直轄地にして守りを固め、翌年には間宮林蔵と一緒に行動していた松田伝十郎が、樺太の最西端に日本領だという印を建てた。

この測量結果は、伊能忠敬の資料とかと一緒に幕府の極秘文書となった。が、この頃オランダ医師として来日したドイツ人のシーボルトによって持ちだされ、公開されてしまう。
世界が見つけちゃったのだ。

住んじゃった

photo by blue_paper_cranium

チェーホフの頃の樺太は、1875年の樺太・千島交換条約により、全樺太がロシア領となっていた。

チェーホフの樺太についての記載を纏めると、洪水が頻繁に起きるわ、土地が畑に向かないわ、風景が陰気だわ、もう最悪!住んでいる流刑囚も文句ばっかり!だ。

サハリンの農業以上に罪人に適した仕事を探すのは困難であろう。

とさえ記載している。

それと、ロシア領になるまでの経緯も記載している。

日本人が樺太を発見し、進出した。
日本人は、最初、定住はしなかった。生活物資はすべて日本から持参し、アニーワ湾(樺太南側の凹み部分)でタダ同然のアイヌ人を労働力にして大量の魚を捕り、終わると帰っていった。
そのうちにポロナイスク(樺太中部の東側凹み部分)辺りに村を作った。

ロシアは、1853年にアムール川の河口辺りにムラヴィヨフスク監視所を建設。その後、清とアイグン条約を結んでアムール川左岸を獲得した。
それを知った日本人は、ロシア人の動きを注視するようになり、樺太でロシアに対抗できるように活動を開始した。

1867年の条約で共同所有の形になり、上で書いた樺太・千島交換条約でロシア領になったというものだ。

最初に見つけられちゃった

f:id:osajiru:20140907125102j:plain

チェーホフの記録には、間宮林蔵があちこちに出てくる。
それだけインパクトがデカかったんだと思う。

間宮林蔵が、西洋にない独自の測量方法で樺太地図を完成させ、半島ではなく島であることを調べあげた。
世界中の正確な地図はヨーロッパ人によって書かれたけど、この辺りだけは日本人に書かれちゃったね的な感じだ。

更には、オレらが領有してるけど、最初に見つけたの日本人だよね。ちょい後ろめたいね的な記載もチョイチョイ見える。

まとめると

古代・中世と違い、時代が近いだけに正確な情報が多い。
この2人の資料を読んでいくと、国家がどのように進出していくかがよく分かって面白い。

ということで、まとまりつかない状態で終わりにします。。。

サハリン島

サハリン島

新装版 間宮林蔵 (講談社文庫)

新装版 間宮林蔵 (講談社文庫)

© 2009-2017 Osajiru All Rights Reserved.