家康、貿易にノリノリ、秀忠、鎖国

家康は外国との交易にノリノリ

photo by ORAZ Studio

江戸時代と言えば鎖国政策。
日本出ちゃダメ!中国、オランダ、李氏朝鮮、琉球、アイヌ以外との貿易ダメ!という引き篭もり政策で、黒船マッチョイズムにより殻をこじ開けられるまで250年弱続いた。

この政策は2代将軍秀忠の時から行われたもので、家康の時代は行なわれていなかった。
むしろ家康は貿易にノリノリだった。
関ヶ原で天下をとった翌年の1601年から早速、金貨、銀貨の鋳造と、朱印船制度などの政策を繰り出した。

戦国時代が終わり平和になったことで、国民の生活が向上した。そのことにより生糸や絹織物、陶磁器の需要が増大した。
金貨•銀貨を鋳造したことで、それらを充分輸入できるようになった。 これらを輸入するために、日本人の海外に進出が始まった。

朱印船制度は、海外進出する日本人に幕府がお墨付きを与えるというもので、幕府の秩序下で進出させることを目的としたものだ。
この制度は、当時のインド洋から東シナ海辺りでの一般的に行われていたルールを取り入れたというもの。
家康は、スペイン領フィリピンのマニラ総督、安南(ベトナム)国王、カンボジア国王に親書を送り、これらの船を保護する依頼をしている。

日本人町

貿易を行うようになると、その取引先に日本人が住むようになる。そしてそこに日本人町ができる。
有名なのが今のタイ辺りにあった、アユタヤ王国の日本人町。
ここにいた山田長政が、日本人部隊を率いてスペイン艦隊のアユタヤ王国侵攻を退け、その功績で王国で高官に登りつめたという話が残っている。
アユタヤ王国には、日本人町だけではなく、中国人町やポルトガル人町、インドネシアのマカッサル人町などがあったようだ。

ヨーロッパ諸国の勢力争い

この時期、ヨーロッパの最強国家はスペインだった。16世紀後半、オランダはスペインの占領下にあり、1579年に独立を果たした。そのためスペインとオランダは敵対関係にあった。
ポルトガルは王朝断絶によりスペインの国王がポルトガル王も兼ねるという状態にあった。が、アジア地域ではこの2国は競争相手だった。
この3国とイングランドが、アジア地域で貿易を行っていた。

1600年、オランダの船が大分県臼杵に漂着した。船員の一人だったウィリアム•アダムスは家康の外交顧問になり、三浦按針の名で神奈川県三浦市に定住した。
漂着した船は、家康の貿易船要請の書簡を持って本国オランダに帰還した。

オランダはこれに応じ、平戸に商館を開設した。イングランドもまた商館を開設した。
両国とも、日中の迂回貿易で利益をあげているスペイン•ポルトガルから利益を奪い取る目的だった。

1622年、オランダ東インド会社は、ポルトガル支配下のマカオに攻めこんだ。が、占領する事ができず、台湾の台南市辺りに要塞を建設し、拠点とした。

オランダは、スペイン•ポルトガルと比べると軍事的に劣勢で、貿易に都合の良い領地を手に入れることができなかった。

これが、日本の鎖国令へとつながる。

オランダの告げ口で鎖国

オランダは、力ではスペイン・ポルトガルに勝てないので、色々な策を施した。

日本での競争についても行った。
キリスト教を警戒する日本に、ポルトガルはビジネスではなくキリスト教を布教するために交易しに来ている。我々はビジネスオンリーで交易をしている。ポルトガルから我々に乗り換た方が良いと吹き込んだのだ。
(この時、スペインは日本によるキリスト教徒処刑などで疎遠な状態となっており、日本貿易での競合とはなっていなかった。)

オランダとの交易だけで、必要分の海外物資が調達できると判断した日本は、朱印船制度廃止、日本人の海外渡航禁止、ポルトガル船来航禁止を行った。

これが鎖国政策の始まりとなった。

キリスト教に振り回された日本

キリスト教を受け入れなかった日本は、250年間独自の文化を磨き上げた。
日本がキリスト教を受け入れなかった理由は、この宗教の根幹にある原理主義的な部分が、文化を侵略してくるように写ったためだと思う。

鎖国してキリスト教を排除した結果、キリスト教そのものは仏教のように定着することは無かった。が、その後、別の形で取り込まれた。

明治になり、西洋に追いつけ追い越せが目標になった日本は、西洋の強さどこにあるかを必死に分析した。
結果、それがキリスト教の一神教的、原理主義的な思考にあると見抜いた。そして国家神道という神道原理主義的な形で取り込んでいった。

ミイラ取りがミイラになることで、ミイラに対抗したのだ。

参考

世界の歴史13 - 東南アジアの伝統と発展 (中公文庫)

世界の歴史13 - 東南アジアの伝統と発展 (中公文庫)

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