16世紀末のフィリピンを巡るスペイン、明、倭寇、秀吉政権の関係

スペインの東アジア進出

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16世紀は、アジアボロ負けのスタート地点にあたる。
スペイン、ポルトガルが世界に植民地を作り始めた時期だからだ。
東アジアも美味しくいただかれる側だ。

1521年にマゼランがフィリピンに到達した。
マゼラン自身はこの付近で原住民に殺されたが、乗っていた船は、この地の香料を大量にお持ち帰りした。
この香料が、欧州のアジアへの関心を引き寄せ、船団を組んで訪れるようになった。
1542年頃には、レイテ島に到着した船団が、この付近の諸島をフィリピンと命名し、遂に領有を宣言した。

こう書いてしまうと、この付近に何も無かったように思えるが、この時期のフィリピンは東南アジア交易の拠点となっており、明の交易船や倭寇勢力、日本の大内家や島津家、肝付家などの交易船などが頻繁に訪れていた。

その後、スペインによるフィリピンの植民地政策が推し進められ、1565年にセブ島平定、1971年には、マニラに進出した。
スペインは、この地にメキシコの銀を持ち込み、銀不足の明に売ることで大儲けしていた。

海賊たちの動き

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その頃、東シナ海に林鳳(リマホン)を中心とする海賊集団がいた。王直や徐海といった倭寇の大物が明に殺された後、その残党を吸収し、200隻の船と10000人のメンバーに膨れ上がった、当時の最大勢力だった。

明は、海賊対策に躍起になっており、林鳳も大陸を追われた。
東に逃げる林鳳。

後に出てくる鄭成功は、似たような状態から台湾に侵入したが、林鳳はフィリピンに侵入した。
アジアの海賊は、単に略奪や通行料で稼いでいるわけではない。半分は貿易商人だ。スペインがメキシコから持ち込む銀は、日本銀で儲けていたこの辺りの海賊にとって、悩みの種であったはずで、これを絶つ意味もあるだろう。

林鳳は日本人の副将、SIOKOを先陣として何度も侵攻した。そしてパガンシナン付近を占領し、砦を建てた。
スペイン軍は規模を増強し、キャノン砲を持ち込んで林鳳の砦を攻めた。林鳳の砦は数ヶ月持ちこたえたが、最終的に船で撤退した。
この戦争は、「カガヤン暴動事件」と呼ばれている。

これより規模は小さいが、1581年、82年にも、日本人と中国人から構成される海賊が襲撃した。スペイン軍はこれも撃退した。

スペインと豊臣秀吉

その後、スペインはフィリピン内に生糸市場を作り、明との貿易を拡大させ、さらに他の国々へと手を広げていった。

この時期の日本の覇者は、豊臣秀吉。

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秀吉は、周辺の国々へ朝貢を求める形での外交を行っており、スペイン領フィリピンに対しても同じように朝貢を求めた。

スペインは、何度も侵攻してきた日本人海賊の経験により、日本が近くに進出してくることを恐れており、警戒しながら日本との交渉にあたった。

やがて、スペインはキリスト教宣教師団を日本に派遣。ここから日本との交易を拡げることを計った。

これに対し秀吉は、警戒して禁教令を敷き、サン・フェリペ号補奪事件と呼ばれる、スペイン交易船積み荷没収するという行動を起こした。さらには、スペインがキリスト教徒を先兵として日本を占領しようとしているのではないかという警戒感から、長崎二十六聖人殉教事件というキリスト教徒処刑にまでに発展した。

これらのことで、日本とスペインとの交渉は途絶えた。

さらには、マニラ在住の日本人追放措置が行われ、これに反抗した日本人は中国人や現地人と連携して度々暴動を起こした。

これらのことから、日本はオランダのみと交易を行うようになり、鎖国政策へと繋がっていく。

参考

倭寇―海の歴史 (講談社学術文庫)

倭寇―海の歴史 (講談社学術文庫)

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