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大和朝廷の北限

今回の秋田旅行で色々な史跡を巡って考えが変わった事がある。
それは飛鳥•奈良•平安時代での大和朝廷の北限についてだ。

今までは、今の国境と同じように、大和朝廷蝦夷と呼ばれていた人々が住んでいるところがある程度分かれていて、歴史に残っている戦は、そのテリトリーを巡り、境界あたりで起こっていたと思い込んでいた。
しかし、和人はかなり早い時代から秋田や岩手方面に住み着いていたようだし、戦はそれよりかなり後の時代になっても、東北の南の方で起こっている。

ダンブリ長者伝説

秋田で「ダンブリ長者伝説」という説話が伝わっている。
その中で、岩手と秋田の間辺りに住んでいた男が田畑を切り開く様子が語られている。蝦夷は狩猟の民なので、これは和人、または和人の文化を受け入れた蝦夷であろう。
さらにこの話では、「大日堂」という信仰施設が建てられる部分がある。この「大日堂」は西暦500年代に建てられたと伝えられている。ということは、500年代にこの辺りで田畑が作られていたということだ。
説話なので、正確ではないと思うが、それでもかなり古くから和人がこの辺りに住んでいたということなのだと思う。


蝦夷の反乱

日本書紀等で、蝦夷がしばしば反乱を起こした記録が残されている。
これは大和朝廷の勢力の境界線辺りで大和朝廷蝦夷勢力が国と国の争いのような形で争ったように思えるが、そうでもない、
争いが起こっても、ある程度の集団は大和朝廷側について戦っているし、基本的に大和朝廷からの独立を目指して、いくつかの集団が集まって戦ったものだった。


源頼朝が日本を統一するまでは、東北は和人と蝦夷が斑模様のように住み、東北の蝦夷も基本的に大和朝廷に属していたのではないかと思う。

阿倍比羅夫坂上田村麻呂も、大和朝廷のテリトリーを広げたというより、大和朝廷の影響力が及ぶ範囲内で、従わない勢力を制圧するというものではないだろうか。

白村江の戦いにも、東北の住民が多く徴用されていたという記録が残っている。早くからこの地域が国家の体制に組み込まれていたということだろう。

仏教の影響

和人が早くから北へ住み出したのは、大和朝廷の武力をベースとした進出もあるが、仏教の影響も大きいように思う。

僧たちが仏教を広めるため、北へ進み、寺を建てる。そしてそこに和人が訪れる。
人が集まると商売が始まる。そうなるとさらに人が集まる。
岩手にも秋田にも、奈良時代やそれより前の時代に建てられた寺や神社が多くあるので、少なくとも和人にとって、古くからそれなりに知られた地ではあったはずだ。

余談だが、仏教は蝦夷にも影響を与えたと思う。
仏教が持つ、皆平等という思想は、蝦夷大和朝廷に反抗する思想のベースになるようなものだったのだろうか。


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